難解なスペイン領アメリカの行政区画【副王領・総督領】をざっくり・わかりやすく解説

ラ米研究

本記事では、スペイン領アメリカがどのような行政区画になっていて、どうやって現在の中南米諸国の国境になるのかをざっくり理解してみたいと思います。

スペイン領アメリカの行政区画をイメージを持ちたい副王領ってどんな感じだったのか知りたい現在の中南米諸国の国境の前身を知りたい、そういった方には、本記事を参考にしていただけるかと思います。

スペイン領アメリカの行政区画の大きな流れを理解することで、現在の中南米カリブ諸国の性格や統合の動きをより解像度高く理解できるかと思います。

なお、スペイン領アメリカの行政区画の歴史は、広大な土地における複数の「国」の300年の歴史と同義なので、それを詳しくみようと思うとかなりの情報量で、実際かなり複雑です。今回はそれをざっくりと、大枠のイメージを持つことを目的とした記事になりますので、まとめ過ぎていたり、必ずしも正確でないまとめ方もされうるので、そういうものと思ってご了解いただければ幸いです。

はじめに〜ざっくりと二つの時代に分ける〜

スペイン王国のアメリカ(中南米カリブ)支配は、15世紀後半(1492年以降)から19世紀前半(キューバ、プエルトリコを除き1828年までにすべて独立)までと考えると、大体16〜18世紀の300年と考えることができます。

この間のスペイン領アメリカの行政区画は変遷を、大きく二つのタイミング(時代)に分けて見ていきたいと思います。

それは、① 二つの副王領時代(16世紀〜17世紀)②複数の副王領と総督領の時代(18世紀〜19世紀初頭)の二つです。

スペイン領アメリカ(16世紀〜17世紀):二つの副王領時代

中米カリブのメキシコ副王領と南米のペルー副王領

スペインのアメリカ植民地の基本となるのが、メキシコ副王領およびペルー副王領の「二つの副王領(Virreinato)」による統治です。副王(Virrey)というのは、スペイン国王の代理を務める国王の身内で、スペイン本国から派遣されます。国王の分身とか、国王(社長)と副王(副社長)とか、そのようなイメージで、従ってかなり高い身分です。

概ねパナマから北側の中米+カリブ+ベネズエラの領域をメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)副王領パナマを含めそれより南の南米全域(ポルトガル領を除く)をペルー副王領として統治していたイメージです。

メキシコ副王領の首都はメキシコ・シティ、ペルー副王領の首都はリマ。これらの都市はスペイン王権のアメリカ支配の「2つの本部」であり、19世紀前半の独立(解放)戦争まで王党(副王党)派の拠点であり続ける超重要都市です。

統治を担う副王とアウディエンシア

植民地の統治の実務を担ったのは、副王と、司法行政立法機関の王立アウディエンシア(Real Audiencia。議長と本国から派遣された数名の議員(オイドール)で構成される)、その下につく官僚(コレヒドール)でした。

ちなみに、こうしたアウディエンシア・コレヒドール体制が組まれる前の、もっと初期のアメリカ支配は、国王と契約を結んだだけの民間人(征服起業家たち)が担っていました。こうした征服起業家たちは、カピトゥラシオンやエンコミエンダにより公的な支配権と既得権益を確保しつつ、都市自治体を形成していっており、スペイン王国の支配下であることを忘れそうな勢いでした。スペイン国王からすれば、ちょっと調子に乗ってるからシメないと危ういな、という感じで、そこで国王任命の由緒正しき副王と、同じく国王任命の議員たち、それに本国派遣の官僚たちにより、改めて国王支配を強めた形になり、これがざっくりと16〜17世紀のアメリカ支配のスタンダードとなります。

なお、征服起業家たちのアメリカ支配行政については、以下の記事をご参考にしていただけます。

メキシコ副王領もペルー副王領も支配する領土が広いので、二つの首都以外にもグアダラハラ、グアテマラ、サントドミンゴ、パナマ、ボゴタ、キト、チャルカス、チリなど、複数の場所にアウディエンシアが設置されます。

副王領とその管轄下の「王国」

これらアウディエンシアを核とする形で、2つの副王領の下には、いくつかの「王国(Reino)」と呼ばれる行政区画ができます。各アウディエンシアのトップは「長官(Presidente)*」が務め、長官職は副王がいるところは副王が、「大将(Capitán General)**」がいるところでは大将がこれを兼務しました。前述のとおりアウディエンシアは統括地で三権を持っているような機関なので、この長官は当該地で強力な権限を持っている人物(役職)です。

*長官(プレジデンテ) 王立アウディエンシアは司法行政立法機能を持った機関であり、その長は、どの権能にフォーカスを当てるかによって、「長官(司法・行政)」とも「議長(立法)」とも訳せるかと思います。

**大将(カピタン・ヘネラル): スペイン語ではCapitán General。日本語では「大将」とか「将軍」などと訳せます。ざっくり言うと副王より下の総督です。植民地アメリカの土地を統治するトップの人のことを「Gobernador」と呼び、これは日本語では「総督」と訳されることが多いと思います。これは、元々カピトゥラシオンにより与えられた役職(別記事参照)で、総督の概念は副王もカピタン・ヘネラルも含みます。

これら「王国」は大雑把に言えば県のようなイメージで、副王直下の県とそうでない県があるような形です。これをまとめると、概ね以下のような副王領と王国の関係性を示すことができます。

【スペイン領アメリカ(16世紀〜17世紀):二つの副王領時代】

出典:『世界の歴史 18 ラテンアメリカ文明の興亡』(高橋均/網野徹哉 著)及び『物語ラテン・アメリカの歴史』(増田義郎 著)等を参考に作成
出典:『世界の歴史 18 ラテンアメリカ文明の興亡』(高橋均/網野徹哉 著)等を参考に作成

ちなみに、上記は大きなイメージを持つために単純化しつつまとめたものだと言う点をご了承いただければと思います。例えば、現在のプエルトリコにあたる島の管轄権は、当初サント・ドミンゴのアウディエンシアが持っていたもののこれはメキシコ副王領設立後早々に同副王領に移ったと言われていますが、わかりやすさ重視でサント・ドミンゴ王国としています。それぞれのアウディエンシアの管轄領域はかなり流動的である他、必ずしもはっきりしていないところもあるのです。

この県のような「王国」が、時代の流れとともに盛衰し、成長し副王領に格上げになったり、ほぼほぼ副王領から独立したような形になったりするものもあれば、そうならずに縮こまっていくものもあります。

独立前のスペイン領アメリカ(18世紀〜19世紀前半):複数の副王領と総督領の時代

次のタイミングを、副王領が4つに増え、「カピタニア・ヘネラル(総督領***)」と呼ばれる領地が副王領と独立した自治を持ち出した時期としてみたいと思います。

***総督領(カピタニア・ヘネラル)カピタニア・ヘネラル(Capitanía General)は、前述のカピタン・ヘネラルがトップを務める領土で、前述の訳との関係では「大将領」とか「将軍領」の訳が正しい気がしますが、カピタニア・ヘネラルに関しては「総督領」という訳が一般的なようです。

17世紀にスペイン王位は、カルロス2世の死によってハプスブルク家が途絶え、王位継承戦争の末、フランス系のブルボン家フェリペ5世により継承され、ここに「ブルボン改革」と呼ばれる改革のメスがアメリカ植民地にも入ります。

かつて「沈まぬ太陽」に象徴される覇権を握ったスペインですが、王位継承戦争でネーデルランドや南イタリアを失った他、イギリスに要衝ジブラルタル、アメリカ植民地貿易の多くの特権を取られるなど、17世紀の間にかなり弱くなっていき、財政的にも厳しくなります。そこで、新しいブルボン家スペイン王は、実態と合わなくなっていた行政区画を是正し、フランス風の行政システムを導入するなど、合理化と支配(収税)強化をおこなっていきます(これを「ブルボン改革」と呼びます。)。

こうしたスペイン王権の衰退や、ブルボン改革植民地の発展と複雑化により、2副王領体制は終わりを告げ、18世紀後半から19世紀前半にかけては、副王領と総督領が複数並立し、現在の中南米カリブ諸国の国境にだいぶ近い形になってきます。独立運動前のアメリカの行政区画は、大体以下のような形でにまとめることができます。

【スペイン領アメリカ(18世紀〜19前半):複数の副王領と総督領の時代】

出典:Luis Alberto Sánchez, Breve Historia de América 及びSocialHIZO等を参考に作成
出典:Luis Alberto Sánchez, Breve Historia de América 及びSocialHIZO等を参考に作成

まずかつてのメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)副王領では、ヌエバ・ガリシア王国はメキシコ副王の一部のような形になっていきます。
かつて征服の拠点であったサント・ドミンゴ王国(アウディエンシア)管轄だった領域は、イギリス人やフランス人にどんどん削られ、18世紀末にスペイン領として残っていたのはキューバ島とプエルトリコ、そしてベネズエラだけでした(プエルトリコは19世紀末にアメリカ領になります。)。サント・ドミンゴ市が位置し、現在のドミニカ共和国に当たるエスパニョーラ島東部は、18世紀末にはフランス領となります(注)。ベネズエラ総督領は18世紀前半にヌエバ・グラナダ副王領の管轄下となることを経て、自治(副王領からの独立)を獲得します。

ドミニカ共和国

かつての植民の拠点であったエスパニョーラ島は、17世紀末に西部がフランスに割譲され(現在のハイチの前身)、18世紀末に東部(現在のドミニカ共和国あたり)がフランス領となります。ハイチ(当時の名前はサンドマング)は1804年にフランスから独立しますが、この時はエスパニョーラ島東西全てハイチでした。その後、一時スペイン領に戻り(1814年〜22年)、21年に独立が宣言されるも、22年にはまたハイチに占領され、最終的にドミニカ共和国として独立するのは1844でした。

かつてのペルー副王領は、ヌエバ・グラナダ副王領(1717年)とラ・プラタ副王領(1776年)の3副王領に分裂し、チリが総督領として自治を獲得します。ヌエバ・グラナダは後のコロンビアのイメージですが、エクアドルとパナマも含んでいきます。また、「ラ・プラタ」といえばアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイですが、ラ・プラタ副王領は現在のボリビア領も含んでいました。

まとめ

スペイン領アメリカの行政区画は、15世紀末から征服起業家が総督となり都市自治体を形成していくところから出発し、16世紀からメキシコ、ペルーの2つの副王領(そして各重要都市に置かれたアウディエンシアが統治の核となる「王国」)の時代に突入します。その時代は王権の衰退と各都市の発展、そして決定的には18世紀のブルボン改革と呼ばれる一連の行政改革により終わりを告げ、4つの副王領(メキシコ、ペルー、ヌエバ・グラナダ、ラ・プラタ)が誕生し、複数の総督領が副王領の管轄下から離れていきます複数の副王領と総督領の時代)。

上記の時代を経て、19世紀前半、解放者(リベルタドーレス)の独立戦争を経て各国が独立します。その後分離(中米)や、領土戦争(太平洋戦争など)を経て、現在の国境になっていきます。

この300年のスペイン統治時代の行政区画の推移をざっくりとでもイメージとして持ち、その後のシモン・ボリーバルやサン・マルティンらによる独立(解放)と併せて理解することで、現在のラテン・アメリカ諸国の性格や統合の動きをより解像度高く見ることができると思います。

本記事が少しでも参考になれば幸いです。

主な参考文献

・『世界の歴史 18 ラテンアメリカ文明の興亡』(高橋均/網野徹哉 著)中央公論社
・『物語ラテン・アメリカの歴史』(増田義郎 著)中公新書
・Luis Alberto Sánchez, Breve Historia de América (Buenos Aires: Losada, 1965), 149-51. (University of Pennsylvania
・SocialHIZO.com, Mapa de América: Virreinatos y Capitanías Generales Siglo XVIII
・ドミニカ共和国を知るための60章(国本伊代 編著)明石書店
・Wikipedia(Capitanía General de Santo Domingo, Capitanía General de Venezuela, Capitanía General de Cuba, etc.)

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