【混沌のパナマ史】パナマはアメリカの都合で建国された?〜コロンビアからの分離独立をめぐる複数説まとめ〜

パナマ

中米の最も南に位置するパナマ共和国は、1903年11月にコロンビアから分離独立した、ラテンアメリカの中で最も独立国としての期間が短い国家、すなわち最も「若い」国です。

そして、この国のコロンビアからの分離独立には、現在通運の世界的な要衝となっているパナマ運河の誘致が関わっていて、「アメリカ合衆国の意向によって誕生した国」であるという見方がよくされます。

一方で、パナマ政府としての公式見解は、パナマの1903年の独立(コロンビアからの分離)は、パナマ人によって成し遂げられた長年の夢であるというもので、当然ながら自分達の国が他国(アメリカ)の意向でできたものであるというのは認めるわけにはいきません。

本記事では、日本ではあまり知られていない、パナマという一つの主権国家の成立をめぐる興味深い説の対立について、複数説を紹介しつつ外観をみていきたいと思います。

パナマ史の外観 〜スペインから独立、コロンビアから独立、米国から独立〜

各説の紹介に入る前にパナマの歴史をざっとまとめたいと思います。

パナマの近代史を表現すれば、それは①スペインからの独立、②コロンビアからの独立、③アメリカ合衆国からの独立、の3度の独立を経て、現在の主権国家を形成していく過程になります。

スペインからの独立

まず、「パナマの独立(Independencia de Panamá)」といえば、それは1821年11月28日のスペインからの独立がこれにあたります。現在のパナマの国祭日(ナショナル・デー)としての「独立記念日」はこの日になります。

1821年、パナマはスペインから独立し、それと同時に、通称大コロンビア(Gran Colombia。正式名はコロンビア共和国)に自発的に統合された、という言い方がよく見られます。当時、ラテン・アメリカ統合の夢を持っていた解放者(リベルタドール)の英雄シモン・ボリバルの意思に基づきこの大コロンビアは建国され、これにはパナマに加え、現在のコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ガイアナ西部、ブラジル、ペルー、ニカラグアの一部までが入っていました。

しかしこの大コロンビアはそう長くは続かず、内部分裂していきます(1831年に大コロンビアは消滅。)。現在のコロンビア、エクアドルやベネズエラはこのときにほぼ現在の形で独立しますが、パナマはその中のコロンビアの一部として存在し続けます。

コロンビアからの独立

コロンビアからの分離独立が成されるのは1903年11月3日で、ここで概ね現在のパナマ共和国の形の主権国家が誕生します。本記事で見ていく色々な説は、このコロンビアからの分離独立をめぐる議論となります。パナマの最も物議を醸す歴史であると言っても過言ではないでしょう。

これをパナマの「2度目の独立」と解したりもします。

しかし、分離独立後すぐにアメリカ合衆国と結んだパナマ運河建設のための条約では運河一帯の主権を異常なレベルでアメリカに譲ることとなっており、これがその後も大きなしこりを産みます。この条約は、日本語では「パナマ運河条約」として知られますが、米国やパナマでは「ヘイ・ブナウ=バリア条約」として知られています。

米国からの独立

パナマは、少なくとも形式的には、パナマ運河建設誘致のため自らの主権を大盤振る舞いしてしまう形でこの条約を米国に提案し、締結するのですが、その後パナマ人たちはこの大盤振る舞いを恨み、反米感情が醸成されていく形となります。

永遠に譲渡するとしていた運河一帯の主権は、米国のパナマ侵攻(1989年12月〜1990年1月)なども経て、1999年12月31日に返還され、これを持ってパナマは自国の全ての領土の主権を回復した形となります。これを「3度目の独立」と言ったりもします。

混沌のパナマ史〜「黄金の伝説」と「黒い伝説」〜

ここからが本記事の本題です。すなわち、1903年11月3日のコロンビアから分離独立(第2の独立)をめぐる疑心暗鬼です。

この1903年のパナマ独立史をめぐっては、大きく2つの説、すなわち、それがパナマ人の自らの意思により達成された長年の夢であるという説と、それが主としてアメリカ合衆国人の意向や都合によって成されたものであるという説が存在します。

パナマ史研究のパイオニアであるカルロス・マヌエル・ガステアソロ博士(Carlos Manuel Gasteazoro (1922-1989))は、1903年のパナマ独立をめぐるさまざまな説について、概ね①パナマ人による意向説(黄金の伝説(Leyenda Dorada))、②アメリカ人による意向説(黒い伝説(Leyenda Negra))、③折衷説(パナマ人の意向であるが、アメリカの影響もあった)の3つに分類しています。

パナマ人による意向説

一つ目の説は、パナマ人が自らの意思で独立を達成したという英雄史観的な見方です。これは、主権国家の独立や建国の歴史としては本来最もオーソドックスであり、国民国家としては当然かくあるべしという歴史観です。

つまり、パナマの独立は、パナマ人の意志によってなされたものであり、パナマ人の尊厳や自由などを追求して達せられた誇るべきものである、という見方です。

パナマ政府としても当然ながらこの説を採用しており、学校教育等でもこの説がとられていますし、本来これを疑う必要はないだろうと思います。「パナマの独立なんだらか、当然パナマ人が自らの意思で達成したんでしょう。」と思うでしょう。

この説に基けば、パナマは、大コロンビア、その後のコロンビアの一部としての在り方を自らの意思で決めてはきたものの、パナマはずっと独立したかった、実際独立運動や蜂起的な住民運動も頻発していたのです。パナマ運河はほんのきっかけに過ぎず、昔からあった独立の夢の実現のためうまくそうした機会を利用したに過ぎないのです。

アメリカ人の意向説

もう一つの同じくメジャーな説は「パナマの独立はアメリカ人の手によって成されたものである」というアメリカ人の意向説です。これだけ聞くと、陰謀説的な匂いがしますが、状況証拠等を詳細かつ科学的に見ていくと最も信憑性が高い説とさえ言えてしまうのがこの説であり、従って多くの専門家が採用する説であったりします。

実際、「社会科学に関するラテン・アメリカ審議会(El Consejo Latinoamericano de Ciencias Sociales (CLACSO))」*は、パナマのコロンビアからの分離独立100周年の機会に、これをめぐる様々な研究者の論文やシンポジウム、パネル等での議論を総合的に分析してみた、というオルメド・ベルチェ(Olmedo Beluche)パナマ大学社会学教授のレポート『パナマのコロンビアからの分離〜神話と虚構〜(2006)』(LA SEPARACION DE PANAMA DE COLOMBIA. MITOS Y FALSEDADES(2006))を出しており、これの結論としてもこの「アメリカ人の意向説」を採用しており、「パナマ人の意向説」およびそれとの折衷案の矛盾点を10個指摘する形で論破していたりします。

CLACSO

社会科学に関するラテン・アメリカ審議会(El Consejo Latinoamericano de Ciencias Sociales (CLACSO(クラクソ))は、1967年設立の非政府国際研究機関(UNESCO関係機関)。ラテン・アメリカ内外の世界55カ国の836の研究機関や大学が参加している。

この説を紹介する上で、パナマのコロンビアからの分離独立の事実関係を別の記事でもまとめたいと思いますが、簡単にまとめると、以下のような感じです。

当時(1903年以前)のアメリカ合衆国は、「太平洋と大西洋を船で効率よく渡りてぇなぁ〜。」と思っていました。南北のアメリカ大陸は地続きなので、米国東海岸から西海岸に行こうと思ったら、広大な大地を何らかの方法で移動するか、東海岸を船出し、南米最南端のホーン岬を回っていくしかなかったのですが、どこかで太平洋と大西洋をつなぐ運河を作ってしまえば、南米最南端まで行かなくても、その運河からショートカットができてしまいます。

パナマ運河

このように、米国をはじめとした国々・人たちのニーズで、陸地が細いところに運河が必要で、その主な建設地候補はニカラグアとコロンビア(の一部の地方パナマ)でした。人為的に運河を作るというには大変な事業なので、ニカラグアで作ればパナマではいらないし、パナマでできてしまえばニカラグアではいらない、という、ある意味両者は競合関係にあります。運河ができればそれだけで物凄い経済効果なので、ニカラグアもコロンビアも基本的には誘致したいし、最も潤うであろう運河一体を抱える地方には特に誘致したい考えるでしょう。イメージでいえば、オリンピック・パラリンピックを誘致したい、というのと似ているかもしれません。一発の花火で終わる面もあるオリパラと比べ、運河は一度できれば半永久的に金を産み続けるので、それのもっとえげつない版とも言えるでしょう。

なお、パナマ地方ではすでにフランス人のレセップス(スエズ運河を作った有名な人)が運河建設を試みられていましたが、熱帯病など様々な困難で事業は失敗に終わっていました。つまり、このフランスの運河会社としては、米国がコロンビア(パナマ)での建設を決めたら、パナマの事業と権利を米国に売ることができるという事情もあるのです。

最初は米国議会内ではニカラグア派が優勢でしたが、パナマに運河を作ってほしい人たちのロビー活動などの影響を受け、徐々にコロンビア(パナマ)派が優勢になっていきます。そして、いよいよ米国政府としては「運河はコロンビアに作ろう、もし無理そうならニカラグア案でいこう。」という方針を固め、フランス会社の買収額は4,000万ドルいかないくらい(前金1,000万ドル)とされました。

しかしながら、ここでポイントとなるのが、コロンビア政府の意向でした。フランスの運河会社が持っていたパナマ一帯の権利を米国政府に売り、米国政府がその土地の権利(行政権等)を得ることには、コロンビア政府の了解が必要です。すなわち、米国とコロンビアの両政府間で条約(ヘイ=エラン条約)の形で約束を結ぶ必要があるのです。

ここで、コロンビア政府は、フランス会社の権利を米国が引き継ぐことを認めるのを渋ります。これには、フランス会社のパナマ一帯での権利は1904年には自動消滅し、その権利はコロンビアに戻ってくるので、ずるずる先延ばしにしてコロンビアに戻ってきてから米国に売った方が良いのでは、とか、あるいは純粋にこのように主権を他国に売り渡すこと自体への反対とか、色々な思惑があったと言われています。

これは、もうコロンビア(パナマ)で運河を作る気になっているセオドア・ルーズベルト大統領(棍棒外交でお馴染み)をトップとする米国政府、米国議会、現地のアメリカ人やフランス人、パナマ地方の有力者、そしてパナマ運河事業で潤うことになるパナマ鉄道会社の関係者、売却するつもりのフランス会社関係者など、こうした関係者たちの失望や苛立ちを大いに誘います。パナマ運河事業の利害関係者からすれば、コロンビア政府の駆け引きによって米国政府がパナマ案を諦めニカラグア案をとってしまっては、取り返しがつかない損失です。米国政府・議会のパナマ案派たちからしても、もうこちらに乗り掛かっているので、コロンビア政府は何をやっているんだ、という苛立ちがあったといえます。

コロンビア国会(上院)は、1903年8月12日、ヘイ=エラン条約の批准を塩漬け(1904年まで)との結論を出し、その後米国の圧力等を受けて揺れ動くも、同年10月31日、結局批准しないまま上院は閉会します。

こうした中で、結果としては、1903年11月3日、パナマ独立派がパナマ・シティで独立・新共和国建国を宣言します。コロンビア政府はこの反逆者たちを取り締まろうと軍を派遣しますが、大西洋側の都市コロンに到着した軍隊は、鉄道関係者や別途派遣されていたアメリカ軍による封鎖を受けて、パナマ・シティ側に行軍できず、機能しません。

結果的には、特段の衝突なく、パナマ新政府はカタチ上樹立され、米国政府はこれを二日後には事実上新政府として承認し、約2週間後の1903年11月18日には、パナマ運河事業の米国の購入に両政府が合意する条約(ヘイ・ブナウ=バリア条約)をこの新政府と結びます。パナマ新政府と米国が結んだこの新しい条約は、パナマ政府は米国にパナマ運河一帯の主権を米国に未来永劫譲渡するという、パナマの主権のとんでもない大盤振る舞いの内容が含まれており、これを起草したのは初代駐米パナマ大使でフランス人のブナウ・バリア(Bunau-Varilla)であったとされます。

上記の流れをみても、なかなかイエスと言わないコロンビア政府に剛を煮やした米国が、パナマを分離独立させて、新しいイエスマン政権と条約を結んでしまった、というストーリーが想像でき、実際当時のルーズベルト米国大統領はそうした批判をずっと受けてきました。

このような、米国の役割が決定的であったという説に基けば、アメリカ政府が直接・間接に介入し(実際の指示がどうであったかはさておき、事実上米海軍がコロンビア政府軍を足止めした形にはなった。)、また運河事業をどうしてもパナマでやりたいアメリカ人を含めた人たちが暗躍した結果として、パナマは独立したのです。パナマ人たちがどう考えていたかについて言えば、この説によれば、確かにコロンビア中央政府への不満はあったかもしれないが、大多数のパナマ人は独立なんて大それたことは全然考えていなかったのです。

この説が正しいとすれば、歯に衣着せぬに言ってしまうとパナマは他国の都合、あるいは運河誘致そのもののためにできた国であるということになってしまい兼ねず、これはパナマ政府および国民にとっては残酷な事実です。この説を唱える歴史家たちは、残酷であるがこれが真実であると言わざるを得ない、と述べています。

折衷説

「黄金の伝説」と「黒い伝説」の中間の説としては、確かに米国人および政府の介入は影響したが、独立はパナマ人らによる発想と意向で実現したものであろうという折衷説もあります。

当然ながら米国の関与のレベルがどれくらいであったか、というグラデーションがありますが、独立の着想がパナマ人たちによるものであったと言う場合は、これはほとんど「パナマ人の意向で独立された」という説寄りであると考えることもできるかと思います。

パナマと米国のどちらの意向でもない説

パナマのコロンビア分離を巡る議論の大枠は前述の3パターンがメインなのですが、これに加え、パナマと米国のどちらの意向でもない、という面白い、しかしながら信憑性もある説もあります。

これは、日本語にも翻訳されている『パナマ地峡秘史~夢と残虐の四百年~』(デイヴィッド・ハワース(HOWARTH, David])著)にも見られる説で、ハワース氏のストーリーによれば、パナマの分離独立は、米国政府によって意図的に起こされたものではなく、アメリカ系鉄道会社の幹部(ウィリアム・ネルソン・クロムウェル)と彼に乗せられた社員たち、そして米国政府とパナマ独立派の間に入って独自の動きをしたフランス人(先ほど登場したブナウ=バリア)の暗躍によって、パナマ革命派が米国政府の支援を得たと勘違いして生じた「アクシデント」に近いものだといえます。

しかもこのブナウ=バリアは、パナマの将来やアメリカの将来を考えて行動していたのではなく、フランスへの狂信的な愛国心(アメリカ政府の買収によりフランスの運河会社が救われる。)と、自身の名誉心(初代駐日パナマ大使として条約を結ぶことで後世に名を残せる。)のためだけの行動であったようです。一方クロムウェルは、一言で言えば、ビジネス(金儲け)のために、米国のパナマ運河事業を成立させるべく動いたものと言えるでしょう。

この説によれば、米国は確かにコロンビア政府の戦略に剛を煮やしていたものの、米国自らが革命を意図的に発生させたのではありません。そうではなく、クロムウェルに乗せられたアメリカ系鉄道会社社員たちが数名のパナマ革命派の母体となり、ブナウ=バリアというフランス人個人が、全くアメリカ政府の人間ではないのに、パナマ革命派たちにアメリカ政府の支援を信じさせたのです。

実際、映えあるパナマの初代駐米大使に、なぜかフランス人のブナウ=バリアが就任し、パナマ新政府本国への打診なく勝手に、パナマの主権ガン無視の条約の条文案がアメリカ側に提案される、という事態が起きます。当時、コロンビア政府の米国政府への働きかけ(パナマ独立を鎮圧してくれたら条約すぐ結びたい。)、米国内での奇妙なパナマ新政府樹立への不信感や追究(再選を控えるルーズベルト大統領への政治的攻撃)、パナマ新政府本国による米国政府との交渉の動き(ブナウ=バリアに好き勝手やらせない)などの懸念から、ブナウ=バリアはとにかく条約締結を急ごうとしていたようです。

ブナウ=バリアはそもそもパナマのことなどさらさら考えていないので、ただただアメリカと早くに条約を締結することを優先し、未来永劫運河一帯の主権を差し上げるといった、アメリカにとっては(例えばルーズベルトの政敵やニカラグア派であっても)ケチのつけようのない条約案が作成され、これがこの後の60年続く米国とパナマとの禍根となる、というのです。

この説はこの説で、「黒い伝説」よりももっとお粗末な建国背景となってしまい、誰も得しないのですが、ハワース氏の書物では、その物語が事細かに、そして臨場感満載で描かれています。

まとめ

1903年11月3日のパナマのコロンビアからの分離独立をめぐっては、パナマ人によるパナマ人のための独立であったとの説から、アメリカ人によるアメリカ人の都合による独立であるとの説、さらにはアメリカ人やフランス人の民間人たちに一部のパナマ人や米国政府が踊らされた結果生じたアクシデントであったとの説など、いろいろな見方があります。

本件は国の尊厳に関わる問題であり、全員が納得する真実の確定は不可能だろうと思いますが、いずれにせよ非常に興味深い現象ではあり得るこの種の歴史を、自由に検証し、認識していくことは重要だろうと思います。

筆者としては、歴史がなんであれ、現在のパナマが国民と住民の安全と幸福を実現することで、自国に誇りを持つことはできるし、国の在り方も多種多様で良いと信じたいと思います。他の中米諸国とは少し異なる歴史を持つ中米の国として、さらに輝いていってほしいと思います。

主な参考文献

・CLACSO, LA SEPARACION DE PANAMA DE COLOMBIA. MITOS Y FALSEDADES(2006)Olmedo Beluche
・パナマ地峡秘史~夢と残虐の四百年~ デイヴィッド・ハワース著 塩野崎宏訳 リブロポート

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