ボリビアとチリの争い【実は外交関係無し!】〜壮絶な「水」を巡る戦い〜

チリ

チリもボリビアも、ワインや観光などで日本から見ても馴染みのある国ですが、実はこの両国は、1978年から現在まで、外交関係(大使館を置いたお付き合い)を有していません

実はチリとボリビアは、伝統的に敵対している隣国で、現在も「海への出口」やラウカ川シララ流水など「水」をめぐって、ボリビアが訴える構造で、争っています

本記事では、チリとボリビアのニ国間関係の歴史と現在、そして今後の見通しについて、簡単にまとめていきたいと思います。

チリとボリビアの二国間関係の原点〜仲の悪い隣国か〜

独立〜スペイン統治時代の行政区画を引き継ぐ〜

チリは1818年、ボリビアは1825年に、それぞれスペインからの独立を達成します。18世紀以降のスペイン帝国時代のチリは「チリ総督領」、ボリビアは「ラ・プラタ副王領」に含まれていました。

独立後の南米諸国の国境は、基本的にはスペイン統治時代の行政区画を受け継ぎます(ウティ・ポシデティスの原則)。これに基づき、ボリビアは現在のチリ・アントファガスタ州北部(以下では「アタカマ回廊」と呼びます。)との沿岸部までを領地として持っていたと認識されますが、これを1879-84年の「太平洋戦争」で負け、現在の「海への出口」を持たない内陸国となります。

繁栄するチリと迷走するボリビア

独立後のチリは、ポルタレスという超有能な政治家と100年近く続くしっかりした憲法(1833年憲法)に支えられた強力な大統領制により、中南米トップクラスの政治的安定と経済的発展を実現していきます。一方独立戦争で疲弊したボリビアの経済はかなり脆弱で、サンタ・クルス大統領(在位1829-39年)が様々な経済・社会改革を断行するも十分な発展は実現できず、ペルー・ボリビア連合国を形成しチリと対立し、さらなる混乱に突入していきます。

ボリビアの対外政策「ペルーと組み、チリと対抗する」

独立後のボリビアの対外政策を見ていると、ペルーと組み、チリと対抗する、というのが外交政策の基本となっているように見えます。これは、スペイン帝国時代終盤にボリビア高地が「アルト・ペルー(Alto Peru)」として、ペルー系王党派の勢力下となったことが関係しているのかもしれません。

かなりざっくりまとめると、独立後のボリビアは、ペルーと組み、チリにケンカをふっかける形で、2度の大きな戦争を戦い(ペルー・ボリビア連合国対チリ戦争(1836-39年)、太平洋戦争(1879-84年))、これに負ける形で、通商の要となり得る唯一の海沿いの領土(現チリ・アントファガスタ州北部)を失うなど、決定的に弱体化します。

出典:参考文献(本記事最後)などを参考に作成

この失った「海への出口」、場所としては現在のチリ・アントファガスタ州北部を、ボリビアが返還するよう求めているのが、ボリビアの「海への出口(Salida al mar)」問題です。ボリビアのチリに対する敵対姿勢現在も進行していると捉えることができるかと思います。

外交関係

チリとボリビアの間では、1833年に友好通商航海条約(Tratado de amistad, comercio y navegación)が結ばれ、これにより国交がスタートします。しかしながら、「海への出口」問題が根底としてある中、「ラウカ川」問題が引き金となり、1962年に国交が断絶、その後、1975年に一時関係は改善するも、1978年に再度国交が断絶し、それ以降現在まで両国には大使館を通じた幅広い外交関係はなく、領事を扱う領事館を通じた関係しかありません。

この独立後の両国の壮絶な戦争と領土の争いに関する詳細は、以下の記事にてもう少し詳しく扱っているので、参考にしていただけるかと思います。

シララ流水問題〜河川か泉か?〜

チリとの「水」を巡る問題には、「海への出口」と「ラウカ川」に加えもう一つ、シララの流水(aguas del Silala)を巡る問題があります。これは、シララと名前が付く川のような水が、チリにとっては自然の川である一方ボリビアが泉(水源)であると主張しているという問題であり、その性質上、河川とも断定できない流れる水を指すべく「流水」という単語を使ってみています。

この問題は、簡単に言うと、ボリビア側の「シララ流水は、もともとはボリビア国内にのみ収まっていた泉であり、これがチリによって人工的にチリ領土に引っ張られて流水となっているものであるので、チリ国内で流れる水の使用であってもボリビアに相応の使用料を払うべき」との訴えと、チリ側の「シララ流水は天然の河川であるので、チリ国内で流れる水の利用権はチリに属し、ボリビアに云々言われる筋合いはない。」との主張がぶつかっているものです。

海で囲まれた日本では起こりえない問題ですが、国境をまたぐ水は、国際法上の争点になりえるのです。

ちなみにこの問題も、他の問題同様、ボリビアがチリに訴える構図であり、チリが対応(使用料の支払い)をしなければ現状は変わりません。ボリビアが能動的な手段に訴えようと思えば、自国からチリに水が流れていかないよう水路を変更する、またはせき止めること等がありえますが、これにはある程度大掛かりな工事が必要なようで、ボリビアにとって財政的、環境的、また当然外交的コストが大きいものと思われます。

チリ・ボリビア外交関係 〜今後の展望は?〜

2022年3月にチリに誕生した左派傾向のガブリエル・ボリッチ大統領は、ボリビアに対し外交関係の再開を呼びかけており、一方で「主権は譲らない」ことも表明しています。

一方で、ボリビア・ルイス・アルセ大統領はこれに対し、海への出口返還なくして外交関係再開なし、と沿岸部の回復が外交関係再開の前提条件であるとの立場を貫く姿勢です。

アントファガスタ北部地域は、1904年の太平洋戦争の講和条約でボリビアがチリに割譲することに合意しており、これに対する違法性は示されていません。したがって、チリからすれば、わざわざ自分からその領土(=主権)を譲ることはあり得ないのですが、ボリビアはそれをチリ自ら行うように求めています。

ボリビアがこの姿勢を貫く限り今後も両国の外交関係が再開されることはないだろうと思います。

まとめ

本記事では、チリとボリビアの独立後の19世紀後半から現在までの関係をざっと見ていきました。

すると、独立後からの両国の対立関係、さらにはボリビアのチリに対する敵対姿勢が見て取れ、それは現在にも続いていると言えます。ボリビアは、独立後、2度の大きな戦争をペルーとともにチリと戦いますが、これに敗れ、1904年平和友好条約により太平洋沿岸部のアタカマ回廊をチリに割譲し、完全な内陸国となります。このとき失った「海への出口」を取り返したいというボリビアと、当然渡すはずのないチリ、という構図が現在までも続いています。

ボリビアの姿勢が変わらない限り、この関係は続いていくものと思われます。

参考文献

・ボリビアを知るための73章【第2版】(編著:真鍋周作)p.246-268

・チリを知るための60章(編著:細野昭雄、工藤章、桑山幹夫)p.32-44

・物語 ラテン・アメリカの歴史 (増田義郎著)p.175-227

・Nicole Selamé Glena, Universitat Pompeu Fabra (España), 2014, “Mare nostrumel – derecho de salida al mar de los pueblos”

・BBC Mundo, 20 de Marzo de 2018, “¿Cómo perdió Bolivia su única salida al mar? El histórico episodio que explica su centenario litigio con Chile”

・Página siete (Bolivia), 12 de abril de 2022, “Chile encara a Bolivia con el río Lauca, que es desviado por ese país, y pide toda el agua del Silala”

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