ボリビア「海への出口」問題とは?【チリに対する粘着がヤバい】双方視点で見ていくことを試みる

チリ

現在南米のボリビアは、同じく南米のチリに対し「海への出口」(沿岸部領土)を返還するよう訴え、これを国内・国際的に訴えて「問題」化しています。

先に結論から言えば、太平洋戦争(1879-84年)で勝利したチリは、ボリビア領のアタカマ回廊(ボリビア唯一の海への出口)と、そのさらに北上のペルー領(現在のチリ・アリカ・イ・パリナコッタ州及びタラパカ州)を獲得します。ボリビアはこの戦争で失ったアタカマ回廊の奪還を現在も望んでおり、それが現在のボリビアの「海の出口」問題です。

この問題が尾を引く形で、ボリビアとチリは現在外交関係を有していません(1962年にボリビアから断絶)。

この「海への出口」(Salida al Mar)の問題とはどういうものなのか、その背景最近の動き今後の展望を、可能な限り双方の感じ方を組みつつ、見ていくことを試みたいと思います(もちろんそれも筆者の一私見でしかありません。)。

この問題を知ることは、少なくとも以下の点で有益かなと思います。
・ニュースで見聞きするさまざまな領土問題について、メタ認知することに役立つ。
・国際的な喧嘩はこんなふうに起こり得る、喧嘩を無くすことは極めて難しいということがよくわかる。
・チリという国と、ボリビアという国がどんな国かというイメージを、地政学的な視点で持つことができる。
・港の重要性に気づく。

18世紀前半 独立からの両国関係と国境線〜伝統的な緊張関係〜

独立〜スペイン統治時代の行政区画を引き継ぐ〜

チリは1818年、ボリビアは1825年に、それぞれスペインからの独立を達成します。チリはオヒギンスやサン・マルティン、ボリビアはボリーバルやスクレら愛国派の活躍によりスペイン王党派を排除し、ここから南米の新たな国としてスタートします。

独立後の南米諸国の国境は、基本的にはスペイン統治時代の行政区画を受け継ぎます(ウティ・ポシデティスの原則)。これに基づき、ボリビアは現在のチリ・アントファガスタ州北部(以下では「アタカマ回廊」と呼びます。)との沿岸部までを領地として持っていたと認識されますが、スペイン統治時代の行政区画は曖昧なところがあり(スペインという一つの国に属するので厳密に区分されていなくても問題にならなかった。)、ボリビアもチリも独立後しばらくはアタカマ回廊の土地にあまり注目しておらず、1866年に南緯24°の境界線で合意するまではふわっとした地域であり続けたと言われています。

このアントファガスタ北部(アタカマ回廊)がボリビア・チリの「海の出口」問題の争点となる場所になります。

出典:参考文献(本記事最後)などを参考に作成

繁栄するチリと迷走するボリビア

独立後のチリは、ポルタレスという超有能な政治家と100年近く続くしっかりした憲法(1833年憲法)に支えられた強力な大統領制により、中南米トップクラスの政治的安定と経済的発展を実現していきます。一方独立戦争で疲弊したボリビアの経済はかなり脆弱で、サンタ・クルス大統領(在位1829-39年)が様々な経済・社会改革を断行するも十分な発展は実現できず、ペルー・ボリビア連合国を形成しチリと対立し、さらなる混乱に突入していきます。

外交関係

チリとボリビアの間では、1833年に、友好通商航海条約(Tratado de amistad, comercio y navegación)を結び、これにより国交が結ばれています

ペルー・ボリビア連合国とチリの戦争(1836-39年)

良港無くして経済発展なし〜ペルーの港を自由に使いたい〜

なかなか浮揚できないボリビアを率いるサンタ・クルス大統領は、打開策としてペルーとボリビアでの連合国を形成していきます。この背景には、サンタ・クルスの師匠であり南米独立の英雄シモン・ボリバルのロマンである大ペルー構想(ペルーと上ペルー(ボリビア)をひとつにする)を受け継ぐという「イデオロギー的側面」と、国際経済力の支柱であるペルーの港を取り込み、ライジングしつつあるチリやアルゼンチンと対抗していくという経済力強化の「実利的側面」があったと言われます。

港に関しては、ボリビアはアタカマ回廊沿岸部にコビハ港を設置(1825年)していますが、ほとんど使われず、ボリビアの貿易の多くはペルー(アリカ港など)から行われていたと言われています。

戦争勃発と連合国の崩壊

ペルー・ボリビア連合国(1836年発足)はチリに対し経済的・政治的圧力を加えていき、これを脅威と認識するチリは1836年12月に宣戦布告し、戦争に突入します(1836年〜39年)。その戦争の期間中チリはポルタレスを失い敗戦も経験しますが、1839年ジュンガイの戦い(Batalla de yungay)で連合軍を破り、これによりサンタ・クルスは国外に亡命、その後のペルーとボリビア間の争いを経て1841年にペルー・ボリビア連合国は崩壊します。

その後のボリビアは、政治的内部闘争を経験しつつ、1850年頃から新たな鉱脈の開発や新技術の導入などで銀の採掘が再び好調となって国内経済が回復していきます。しかしながら、この後再びボリビアとペルーはチリと戦争し、これに敗北することとなってしまいます。これが、太平洋戦争です。

太平洋戦争(1879-84年)〜チリ VS ペルー・ボリビア連合再び〜

1850年以降、これまでのボリビアとチリの国境地帯、上記で図示もしましたチリ・アントファガスタ州北部(アタカマ回廊)が、両国の衝突の舞台となります。

冒頭述べた通り、本戦争の結論としては、勝利したチリボリビア領のアタカマ回廊(ボリビア唯一の海への出口)と、そのさらに北上のペルー領(現在のチリ・アリカ・イ・パリナコッタ州及びタラパカ州)を獲得したのですが、ボリビアはこの戦争で失ったアタカマ回廊の奪還を現在も望んでおり、それが現在のボリビアの「海の出口」問題です。

戦争の背景〜イケイケのチリ企業にフラストを溜めるボリビア〜

前述のアタカマ回廊は、独立後長らくチリからもボリビアからも特に注目されていない土地でした。前項でも述べたとおり、1825年にボリビアが、唯一の海への出口であるこの地に輸出の拠点を作るべく「コビハ港」を設置しますが、港はあまり使われず、周辺の土地も開発されないままでした。そこで、栄えているペルーの港を取り込もうとペルー・ボリビア連合国計画が実行に移されていきますが、同連合も1841年に崩壊します。

その後、ボリビアは自国の港を使えるように、コビハ港やその南方のメヒジョネス港と内陸を実質的に連結させようとしますが、人口や経済活動は思うように増えず、ボリビアにとってのメインの港はペルーの港(アリカ港)であり続けました

そうした中で、1866年から英国・チリ資本の硝石会社「CSFA」(注)が、のちの両国の境界線となるこの地帯で、硝石(Salitre)などの鉱山開発を開始し、チリ人らによって人口は増え、港町が栄えていきます

CSFA

英国・チリ資本の硝石会社は、「アントファガスタ硝石・鉄道会社(Compañía de Salitre y Ferrocarriles de Antofagasta(CSFA)」。スペインから独立した後の南米経済には、英国ががっつりと入り込んでいます。

ボリビアからすれば、当時国境も曖昧な中で、自分たちの唯一の海への出口がある地帯を英国とタッグのチリ企業がガンガン開発し、利益を独占していく状況に危機感を持ちます。そして同年、チリ・ボリビア間で交渉が行われ、その結果、国境を南緯24°とし、南緯23°〜25°を共同開発地域とすることを条約で確認(1866年条約)しました。

その後もCSFAの硝石開発は進み、南緯24〜23°圏内(ボリビア側共同開発地域)に位置するアントファガスタ港が活動の重要な拠点としてチリによって発展していきます。ボリビアからすれば、条約で合意はしたものの、面白くない状況が続きます。

ちなみに、南緯24〜23°に位置するアントファガスタ港はボリビア領になりますが、同港開発後もボリビアの貿易の拠点はペルーのアリカ港であり続けたようです。つまりは、ボリビアは、権利は主張すれど、同地での実質的な経済活動も、リスクを取った開発も行ってきていない、という見方もできるかと思います。

そこでさらに、1870年に、南緯23°付近で新たな銀鉱脈が発見され、この利権は渡せないと思ったボリビアは66年条約の改正(南緯23°〜25°の共同開発に関する条項の撤廃)をチリに要求し、再度交渉が始まります。合意された1874年条約では、南緯24°の国境を再確認した上で、ボリビア側共同開発地域(南緯24°〜23°)で活動するチリ企業への輸出税率を25年間引き上げないことなどが合意され、同地域でのチリ企業の開発は引き続き進みます。チリ側からすれば条約の範囲内で経済活動を行っているわけですが、ボリビア側からすれば自国ばかりが削られていくようなフラストレーションが溜まっている状況かと思います。

戦争勃発〜ボリビアの勝手な条約違反にブチ切れのチリが侵攻〜

フラストレーションが爆発したボリビアは、1874年条約に一方的に違反する形で、1878年、CSFAに対し「10セント課税」(注)と呼ばれる新たな課税を決定します。これは条約違反であるし、CSFAもボリビアから許可を得て活動しているしで、CSFAも応じなかったところ、1879年2月、ボリビア・ダサ大統領は同社を収用することとします。

10セント課税(Impuesto de los 10 centavos)

チリ・アントファガスタ硝石・鉄道会社(Compania de Salitre y Ferrocarriles de Antofagasta(CSFA))の輸出100kgに対し10セントの課税を行うもの。1878年、ボリビア国会が承認した。太平洋戦争の直接の原因と言われることが多い。

これにブチ切れたチリ政府(ピント大統領)は、同月、南緯24°の国境以北、すなわちボリビア領内に侵攻し、アントファガスタ市を占領、その後さらに北上し、4月までにメヒジョネス、コビハなど、アタカマ回廊全域を制圧していきます。

一カ国では太刀打ちできないボリビアは、密約を結んでいたペルーに頼ろうとし、ペルーもこれに応えます。1879年4月、チリはボリビアとペルーに宣戦布告し、チリ VS ボリビア・ペルー連合の戦争が再び太平洋戦争(「硝石戦争」とも言う。)として起こります。

戦争の結末〜チリの圧勝、ボリビアは戦わずに撤退〜

太平洋戦争の中身については深入りせず、ここではチリ・ボリビア関係上重要なポイントと戦争の結果にフォーカスしたいと思います。

まず特筆すべきは、チリ軍がわずか数ヶ月でボリビア領のアタカマ回廊一帯を制圧してしまったことが挙げられます。ボリビアの住民主導の義勇軍はあったものの、軍や警察などによるボリビア政府の抵抗というものはほぼ見られなかったと言われています。このことから、そもそもアタカマ回廊にはボリビア政府の主権が及んでいたとは言えないのではないか、という疑問も呈されています。

アタカマ回廊を占領したチリは、ペルー領南部(現在のチリ・アリカ・イ・パリナコタ州とタラパカ州)まで進軍し、イキケの海戦でペルー海軍を破り太平洋の補給路を確保し、81年にはリマを占領、焦土戦を経て83年にチリとペルーは講和条約を結びます。

一方のダサ大統領率いるボリビア軍は、アタカマ回廊がチリ軍にほぼ占拠された後の79年4月中旬にラパスを出発します。同軍は、チリが占領したペルー南部よりさらにペルー内部のタクナで長期駐留し、その後南下する作戦を実行しようとしますが、過酷な状況に耐える体力はなく、ダサ大統領は戦わぬまま撤退を決意します。

このダサ大統領の撤退の判断はボリビア軍および市民に失望され、同大統領は国外に亡命し、代わりに軍人のカンペーロが大統領兼軍総司令官となり、1880年、タクナでチリ軍と戦います(アルト・デ・ラ・アリアンサの戦い(Batalla del Alto de la Alianza))が、これに敗北します。ボリビアはこれで戦線離脱したような状態となり、以降チリに対し領土奪還のために侵攻することはできません。チリも下手に深追いせず、占領地の平定とペルーとの戦いに集中します。

1884年、ボリビアはチリと休戦条約を結び、最終的には1904年に講和条約(Tratado de Paz y Amistad)が結ばれます。これにより、ボリビアはアタカマ回廊(沿岸400kmと12万㎢の領土)をチリ領とすることに合意し、海への出口を無くした内陸国となります。

ボリビアの「海への出口」問題

一次産品の輸出が経済の核であるボリビアにとって、良港を確保することは死活問題で、独立以後ペルーの港やチリの開発した沿岸部を取り込もうと奔走してきましたが、太平洋戦争の敗北でついに唯一の沿岸地域を失ってしまいました。

海に面さない内陸国は世界でも44か国程度しかなく、南北アメリカ大陸で内陸国なのはボリビアとパラグアイのみです。世界の交易の要は港であり、オーストリアやスイスなどの一部のヨーロッパ諸国を除き内陸国の経済は遅れているというデータもあります(実際、ボリビアとパラグアイは南米の最貧国一位二位を争っている国です。)。

ボリビアからすれば、「海への出口」を無くしたというのはナショナリズムにとっても経済的利益にとっても大ダメージで、これを取り戻すというのは国益上必要なことだ、ということになります。

そこで、1920年以降、ボリビア政府は「海への出口」奪還を目指しますが、チリからすれば条約で合意済みの主権を渡すことにはなりません。

1962年 ボリビアによりチリとの外交関係断絶

ボリビアが「海への出口」(すなわち1904年条約の合意内容の変更)をチリに求める中、「ラウカ川(Río Lauca)」問題(注)が引き金となり、1962年、ボリビアはチリとの外交関係断絶を宣言します。

ラウカ川問題

太平洋戦争でチリ領となったアリカ・イ・パリナコータ州を水源し、ボリビア領まで流れる国際河川であるラウカ川の水路をチリが無断で変更したとしてボリビアが批判している問題。ボリビアとしては自国の下流地域に影響の大きい国際河川の水路変更には事前の打診があるべきとの立場で、チリとしては水路変更は地域住民に必要な灌漑用水確保のための「公平かつ合理的利用」であるとの立場。

その後、バンゼル大統領(ボリビア)およびピノチェト大統領(チリ)時代の1975年に関係が改善し再び交渉が再開されるも決裂し、1978年に再度国交が断絶します。

これ以降、エボ・モラレス大統領(ボリビア)およびバチェレ大統領(チリ)時代(2006年)に歩み寄りが見られ、2011年に60年ぶりの外相会談が開催されるも、解決には至りません。

2013年、ボリビアは「海への出口」問題解決のためチリが交渉のテーブルにつくべきとの訴えを国際司法裁判所(ICJ)に提訴します。なお、ボリビアの訴えの争点は、1904年条約の違法性なく、チリがこの問題解決のため対話を行う義務があるがこれを履行していない、解決のための対話を行うべき、というものです。そして、ボリビアにとっての解決は「海への出口」を得ることである、それまではこの問題は解決しない、というロジックです。

2018年、ハーグ(ICJ)は、チリに交渉の義務はないとして、ボリビアの訴えを棄却します。しかしながら、ボリビアは引き続きこの「問題」の解決を訴え続ける立場です。

「海の出口」問題:もう少し深掘りしてみると

もう少し深掘りすると、この問題に関わるまだ述べていない重要なポイントとして、以下を挙げることができるかと思います。

ペルーもプレイヤーの一人

太平洋戦争の当事国にはペルーも含まれるので、「ペルーはどう思うのか?」という話にもなります。ボリビアと同じく太平洋戦争でチリに沿岸部の領土を割譲したペルーは、ボリビアと同じようにその返還を求めているかというと、そういうことはありません。

実際、ボリビアとチリの間の交渉で、この問題を解決するため、ペルーとチリの国境沿いを細いボリビア領としてあげてはどうか、という案も出ましたが、これにペルーは賛同しなかったとされています。

チリやペルーが物理的に分断される問題

上記のペルーとチリの国境沿いをボリビア領にするという案がボツになる場合、ボリビアに「海への出口」を作ってあげるということは、ペルーかチリが物理的に分断される(飛地ができる)ということを意味します。(チリやペルーからすれば)1904年講和条約の違法性が示せない中ではある意味「善意」でボリビアの「海への出口」問題に付き合ってあげている中で、その結論が国家の物理的な分断となることは受入れ不可能でしょう。

ボリビアの国内問題

「海への出口」問題は、ボリビア政府が国内の様々な問題を外に向けさせるために持ち上げた問題である、とよく言われます。もちろんこれはボリビア政府から「そんなことない」という話にはなりますが、ボリビアの訴えには、気持ちはわかるとしても、ICJに棄却されたように国際法上の納得的な根拠があるようには、残念ながら、見えません。外交関係断絶につながるような大問題にまで発展させているので、ボリビアとしても引っ込みがつかないだろうと思われます。

チリ「なんでボリビアが上からなん?」

チリからすれば、本来チリにとって対話に応じるメリットはほぼないのに、両国関係のためあえて応じて「あげている」にも関わらず、「このような形じゃないと問題「解決」とは言えないからな!」とか「このような条件と義務をチリが果たさないと外交関係再開はできないからな!」というような、ボリビアの「上から」な態度を受け入れられません。

確かに、チリ側に立てば、太平洋戦争はボリビアの違法な経済制裁が発端となって生じた戦争であるし、14年の休戦を経て結ばれた講話条約(1904年条約)はボリビアも合意した両国間で有効な法であって、現状は国際法的になんら問題がないということが言えそうです。さらには、ボリビア領とされていたアタカマ回廊も、ボリビア側のそれらしい統治の跡も、戦争時の防衛もなかったようです。

「水」を巡る他の問題

チリとボリビアの間には、この「海の出口」問題のほかに、前述の「ラウカ川問題」、そしてそれとは別に「シララ流水問題」というものもあります。これらは「海の出口」問題と直接的な関係はありませんが、国民感情には影響があると思います。

シララ流水問題については、以下の記事の後半をご参照ください。

今後の展望は?

2022年3月にチリに誕生した左派傾向のガブリエル・ボリッチ大統領は、ボリビアとの関係改善への意欲を表明しており、ボリビアもボリッチ政権の誕生に好意的なメッセージを発信しています。

一方で、ボリビアが強烈に求める「海への出口」は、いくらイデオロギー的なシンパシーがあるからといってチリがこれを自発的にボリビアに譲ることになるとは到底思えません。

2013年のボリビアの国際司法裁判所への訴え内容を見ても、ボリビアの「海への出口」要求は、戦争や1904年条約の違法性を能動的に証明していくものではなく、チリの自発的な「問題」解決(究極的には自分から自発的に「海への出口」を返還する)を求めるもので、一方でチリからすれば、あるいは国際法上、現状明確な「問題」は存在せず、ボリビアもただただ返せと言っているだけで国際法的な「問題」を提起できているとは言えないように見えます。

しかしながら、ボリビアも、ここまで大きな問題としていて簡単に引っ込めるわけにもいかないであろうし、実際沿岸部の回復はナショナリズム的にも経済・実利的にも国の悲願であろうので、引き続きチリに解決を要求し続けるでしょう。ボリビア側に立てば、「海への出口」を諦めきれない中で、戦争で取り返すわけにもいかないので、問題を大きくして言い続けるしかないということなのかもしれません。

したがって、本件についてはボリッチ政権下でも平行線をたどるのだろうと思われます。解決したっぽくなるとすれば、ボリビアでこの問題を追求しないという大統領が現れることですが、それもまた別の大統領に変わればぶり返すと思うので、やはりそれでも平行線だろうという気がします。

まとめ

本記事では、チリとボリビアの独立後の19世紀後半から現在までの関係をざっと見ていきました。

すると、独立後からの両国の対立関係が明らかに見られ、それは現在にも続いていると言えます。ボリビアは、独立後、2度の大きな戦争をペルーとともにチリと戦いますが、これに敗れ、1904年平和友好条約により太平洋沿岸部のアタカマ回廊をチリに割譲し、完全な内陸国となります。このとき失った「海への出口」を取り返したいというボリビアと、当然渡すはずのないチリ、という構図が現在までも続いています。

ボリビアの訴えの中身を見ていると、まさに出口のなさそうなこの問題の解決にはかなり時間がかかりそうです。

参考文献

・ボリビアを知るための73章【第2版】(編著:真鍋周作)p.246-268

・チリを知るための60章(編著:細野昭雄、工藤章、桑山幹夫)p.32-44

・物語 ラテン・アメリカの歴史 (増田義郎著)p.175-227

・Nicole Selamé Glena, Universitat Pompeu Fabra (España), 2014, “Mare nostrumel – derecho de salida al mar de los pueblos”

・BBC Mundo, 20 de Marzo de 2018, “¿Cómo perdió Bolivia su única salida al mar? El histórico episodio que explica su centenario litigio con Chile”

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