アステカ王モクテスマは「臆病者」か「賢者」か?アステカ史上最強の王が直面した最悪の苦難を想像してみる

メキシコ

アステカ帝国は、スペイン人征服者(コンキスタドーレス)が中米に到達した際に同地域で最も強力であった帝国です。この帝国のスペイン人の手による滅亡(1521年)が、メキシコ副王領(=ヌエバ・エスパーニャ副王領)の設置、独立後は現在のメキシコ共和国の樹立につながっていきます。

スペイン軍との接触というアステカ帝国最初で最後の最難関に直面することになってしまった皇帝がモクテスマ(モクテスマ2世。モンテスマ等発音の仕方には諸説ある。)です。

モクテスマは、コルテス率いるスペイン軍に対し、戦わずにスペイン軍に取り入られようとしたことで知られていて、これをスペイン人に媚びへつらう「弱虫」「弱腰」な王と描写されることがよくあります。

一方で、モクテスマの宥和(ゆうわ)政策は、ただただスペインに恐れをなして取られたものではなく、冷静な分析の上に取られた策であったとの説も存在します。

本記事では、モクテスマ2世が「臆病(Cobarde)」な王であったのか、それとも「賢者(Sabio)」であったのか、アステカ帝国の最期を辿りつつ、想像していきたいと思います。

アステカ史上最強の若き王 モクテスマ2世

征服者フェルナンド・コルテス軍がアステカ帝国と接触した1519年頃、モクテスマ王は当時40〜50歳代であったと思われます。アステカ征服に参加したベルナル・ディアス兵士は、モクテスマ王の描写として、40歳ほどの歳で、立派な体格、顔は快活な面立ちで、目つきも立派、その眼差しには人柄が表れ、特には厳粛になった(下記参考文献1)と供述しています。その人物画でも筋肉隆々な若くてかっこいい君主像が描かれています。

モクテスマがアステカ王に即位した当時はさらに若い30歳代であったと考えられ、在位中にアステカ帝国は中央集権化を強化し、最大版図を達成します。このことから、モクテスマは当時の中米の先住民勢力の中では最も強力な帝国を率いる戦争に長けた若き王であったと想像ができます。

現存するテオティワカン。アステカよりも何百年も前の文明のもので、アステカ人も神聖視していた模様。テノチティトランとは全くの別物。

アステカ帝国の首都はテノチティトラン(現メキシコ・シティ)。スペイン軍に破壊され現在は残っていないものの、コルテスがこの都市をスペインの主要都市と同じかそれ以上の大都であるとスペイン国王(カルロス一世)に報告させるほどの立派な都市であったようです。

モクテスマ 絶望的な危機に直面する

コルテス軍が中米地域に侵入し最初に本格的に戦闘することになるのは、アステカ人(メシカ)ではなく、トラスカラ人でした。トラスカラ人は人数ではスペイン軍に大きく勝っていたものの、鉄製武器と騎馬の力の前になすすべなく、スペイン軍に屈服し、これに協力することを選びます。コルテス軍はこれ後、トラスカラ軍と連合でアステカ帝国を攻めることになるのです。

モクテスマは、突如表れたこの白人たちに関する情報収集を行っており、したがってその圧倒的な武力を事前に認識していたと考えられています。

また、スペイン人と接触した1519年が、メキシコ古代の暦でケツァルコアトル神(ヒトに文化を与えた神とされ、白い肌をしていたとされる。)と深い関係がある「一の葦」と呼ばれる年にあたり、アステカ人およびモクテスマ王がスペイン人をケツァルコアトル神と同一視したことで、精神的に敗北した状態であった、とも言われます(諸説あり。)。

ケツァルコアトル神

このように、モクテスマは、次元の違う武力を持つスペイン軍(しかも敵対するトラスカラ軍と連合)と暦上の不吉さを事前に認識した上で、これに対処しなければならないという、絶望的な状況にいきなり突入します。これは誰が王であっても現実逃避したい状況であろうと想像します。

モクテスマ スペイン軍に対し宥和政策を取る

モクテスマは、コルテス・トラスカラ人連合軍と戦うことを選ばず宥和(ゆうわ)政策を展開します。征服者に対し自ら貢物を献上し、首都テノチティトランを無血開城し、傀儡(かいらい)化したと言われます。
征服者もこれを良いことに、金(ゴールド)を上納するよう民衆に労働を強い誤解で民衆を虐殺する(祭の準備をしていたのを武装蜂起と勘違いしたとされる。)など、圧政を敷いていきます。

こうしたスペイン支配に対しアステカ人たちも黙っていられず、モクテスマの弟クイトラワクを新皇帝の地位に押し上げ、スペイン軍に反乱し、これに壊滅的ダメージを与えます。モクテスマはアステカの民衆から石を投げられ死んだとする説があり(コルテスの部下に殺されたとする説もある。)、それほどモクテスマのスペイン人に対する「弱腰外交」を受け入れられないアステカ民がいたのだろうと推察されます。

一時盛り返したアステカ人ですが、スペイン人が持ち込んだ天然痘(viruela)などの伝染病が猛威をふるい、多くの民衆に加え、クイトラワク王も伝染病で亡くなってしまいます。スペイン軍はこれを戦略的且つ執拗に攻めて、1521年、最後のアステカ皇帝(病死したクイトラワクの後任はその甥のクアウテモクが継いでいた。)が捕らえられます。

モクテスマの苦悩を想像してみる

現在の中央メキシコで最も強力であったモクテスマ王率いるアステカ帝国は、このようにして1521年に滅びます

アステカ皇帝モクテスマが、スペインに対しビビって下手に出た「臆病者(Cobarde)」であったのか、それともスペインの圧倒的な武力を冷静に分析し自分が謙ることで民衆を守ろうとした「賢者(Sabio)」であったのかは、議論が別れるところです。しかしながら、一つ言えることは、戦うこともかなりの「無理ゲー」であっただろうということで、迷わず戦うことを選んだインカ帝国も同じく武力で押さえつけられ、最終的に滅亡しています。

また、アステカ帝国は生贄を神に捧げることを日常とするように、現在とは世界の見方が全く異なります。彼らにとって、神話的に不吉な予兆があり、実際に多くが原因不明の死を遂げる(当時は、先住民側もスペイン側も伝染病によるものだとは思っていない。)ようであるということは、戦意を喪失させるには十分であったのではと想像させます。

したがって、当時の状況的を考えると、戦わずしてスペイン軍の言いなりになったようなモクテスマの選択は、冷静に分析した上で戦っても勝ち目がないので止むを得ないという、苦渋の選択であった可能性もあるのではと思います。

まとめ

アステカ史上最強となりながら、史上最悪の難関に直面することになったモクテスマの苦悩は想像を絶するものがあります。インカとは対象的に、アステカはスペイン軍に対し宥和政策を取り、スペイン人による搾取を経験します。

モクテスマの方針を受け入れられないアステカ人たちは王を見限り、弟を推戴してスペイン軍に徹底抗戦しますが、天然痘などの伝染病で弱体化し、1521年にコルテス軍により潰されます

モクテスマが臆病な王であったか賢王であったかは、究極的には想像するしかありませんが、筆者は後説をとってアステカ滅亡の歴史を見る方がしっくりくることが多い気がしています。

主な参考文献

・世界の歴史 18 ラテンアメリカ文明の興亡 (高橋 均 / 網野 徹哉 著)中央公論社
・物語 ラテン・アメリカの歴史 (増田 義郎 著) 中公新書)
・Wikipedia: Moctezuma Xocoyotzin / Aztecs

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