キューバ革命を率いたフィデル・カストロ・ルス氏(1926年-2016年。キューバ初代国家評議会議長兼閣僚評議会議長。)は、中南米カリブ地域ではもちろん、世界的に有名な人物です。
本記事ではフィデル・カストロの人物像を知る上で有益であり、かつ非常に興味深い、同氏のわかりやすくすごいエピソードを紹介したいと思います。世界で唯一成功した社会主義革命と言われるキューバ革命の指導者としての政治的センスや能力はもちろんなのですが、政治家以前に人間としてどのような能力を有していたのか、というところに焦点を当てたいと思います。
キューバ革命自体やキューバ政治についてもそれだけで重要且つ大変興味深いテーマでありますが、それはまた別の機会とし、本記事はラ米政治に詳しくない人でもフィデル・カストロ氏やキューバ、そしてその革命に関心を持ってしまうような、誰でも読めるものにできればと思っております。
本記事は、フィデル・カストロの名前は良く聞くし業績もざっくりわかるけど、どういう人なのかイメージを持ちたい、という方に有益だと思います。
それではいってみましょう。
フィデル・カストロ・ルス氏のわかりやすくすご過ぎるエピソード
地頭がめっちゃ良い
フィデル・カストロ氏は、率直に言ってかなりIQの高い人物であったと言えるでしょう。
まず、幼少期のエピソードですが、彼は出生地のビラン(Birán)村にあった公立学校に通い、優秀なのでその場所にいるのが勿体無いと当時の先生に言われ、7歳になるのを前にサンティアゴ・デ・クーバ(Santiago de Cuba。キューバ第二の都市と言われる。)に送られます。
サンティアゴ・デ・クーバではすぐには学校に通わせてもらなかったようで、また特段の家庭教師等もおらず、家の中で過ごすのですが、字を書く練習をするようにと渡された本の赤い裏表紙に計算の表が書いてあったのを自分で見るだけで、足し算、引き算、掛け算、割り算を習得したようです(本人の自伝引用。)。
6歳そこらで、誰にも教わらずに、またおよそ教科書と言えるものでもない計算表だけで算数をマスターしてしまうというのは、天才のそれでしょう。彼は前述の入学時期の遅れなどで通常の年齢より遅く小学校に入学するわけですが、その後飛び級してそうした遅れは帳消しにします。
このように、また本人が自伝で述べているように、フィデス・カストロ氏は幼少期から勉強はでき、とりわけ数学の才能は突出していたようです。ハバナ大学の法学部に入学することを決めた彼の卒業したハバナ市の高校(ベレン校)の年鑑の説明には、「フィデル・カストロ(1942-45在位)は、人文科学に関係する学科すべてに傑出した成績を修めた。これから法学の道に進むが、彼にはその素質があり、その道の達人になるだろう。」と、法学を含めた文系の素質を讃えているも、フィデス・カストロ氏本人は数学の方が断然得意であったと述べています。
考察力とメタ認知
前述の地頭の良さとも関係しますが、フィデル・カストロ氏は、物事の考察や分析においても、かなりの才能を持っていた人物であると言えます。
一つ筆者が驚いたのは、彼が当時キューバで唯一の大学であるハバナ大学に入学した際の他の学生について述べたコメントで、彼はハバナ大学に入学する多くのエリートたちを見て、そのほとんどが高校を卒業しながら基本的な政治的・歴史的知識を欠いていることを指摘します。
つまり、それは「古代ペルシャから第二次世界大戦まで人類の戦争の事実関係は学ぶが、戦争そのものを生み出す社会の仕組みについて学校では全然教えられない」ということであり、これは日本でも詰め込み型の教育に対しよく用いられる「暗記はするが考える力や考察力がない」ことへの批判と近いものがあるかと思います。
こうした、「メタ認知」的な視点をすでに学生時代から認識しつつあるところに、彼の政治的なセンスや力があるのだろうとも思うところです。
フィデル・カストロ氏がキューバ革命成功後にすぐに国家元首の職に就こうとしなかったり、国内で伝説的な存在でありながら彼を讃える像等は作らせなかったりする等、彼のそうしたメタ認知能力は革命中及びその前後で随所に発揮されていたと言えます。
スポーツ万能
フィデル・カストロ氏の特徴として挙げられるもう一つの側面は、彼がスポーツの才能でしょう。体格的にも恵まれた同氏は、高校では探検部(登山部的なもの)の部長であり、また学内の最優秀のスポーツマンにも選出されます。また大学でも複数の運動部から勧誘を受け、バスケ部や野球部を兼任したりもしました。
最終的には、大学では法学部の勉学やその時から始まった政治活動が忙しすぎて運動部の活動は止めることになりますが、目指そうと思えばプロの選手として活躍できそうな運動神経を有していたようです。
弁護士として有能
フィデル・カストロ氏は法学部を卒業し、国内で弁護士資格を取得します。そして、同氏の弁護士としてのとんでもエピソードとして、国家に訴えられる形で、さらに弁護士が排除された状態の絶体絶命の裁判で、自身が被告をやりながら弁護士として自分の弁護士をやり、その裁判自体も乗り切る、というものがあります。
モンカダ兵営襲撃(注)後の「モンカダ裁判」にて、当時の政権が弁護士を排除して秘密裏に裁判を進めようとする(カストロ談)中、フィデル・カストロ氏は被告でありながら弁護士として法服(ほうふく)を着て弁護士席にもいき、自らの弁護を行います。
そこで、バティスタ政権の残虐ぶりを明らかにしつつ、同政権の正統性のなさを論理的に説いた上で、モンテスキュー(三権分立)、ジョン・オブ・ソールズベリー、トマス・アクィナス、ルター、ミルトン、ロック、ルソー等々の理論を用いつつモンカダ兵営襲撃は圧政に対する「人民の抵抗権」であることを法的に論じます。ただただ「バティスタ政権が悪であるのでそれに対抗する自分達の行動は正しい」というのではなく、それを論理的且つアカデミックに説明してしまう、というところに、フィデル・カストロ氏の凄さがあろうと思います。
理科にも強い
フィデル・カストロ氏の数学や法学における強みは上で書きましたが、理科にも強い、というエピソードもあります。
同氏は、前述の「モンカダ裁判」の臨時法廷で禁錮15年の刑を受け、投獄され、当然当時のバティスタ大統領を怒らせており、全く光の差し込まない独房に閉じ込められます。これは、政権からすれば危険思想のフィデル・カストロ氏にいかなる形でも政治的・思想的活動をさせないための措置であったと想像がつきますが、同氏はこれに対し、昼間にわずかに漏れてくる太陽の光を利用し、「レモン汁」で紙に裁判の弁論を書いて、密かに外部に届け続ける、という理科の力を発動します。(レモン汁で書いた文字は、乾燥すればすぐに読めなくなるが、アイロンで浮き上がらせることができます。)
これが地下組織を通じて広報されていき、フィデル・カストロ氏は反バティスタ運動のシンボルとなり、国民世論が味方となり、最終的に国会が同氏の恩赦法を可決し、出獄することになりますので、こうした理科の知識も彼の政治家として不可欠なものであったといえるでしょう。
1956年の、22人しか乗れないヨットに55丁の武器と82人の人間が乗り込み、キューバ島東部の海岸を目指して嵐の海に出帆したでお馴染みの「グランマ号」の航海においても、超絶定員オーバーの船を嵐の中うまく航行したというのは、少なくとも一般的以上の理科や物理の知識を航海に繋げていたのではと想像します。
世界一命を狙われるも長生き
フィデル・カストロ氏が、638回の被暗殺未遂でギネス記録になっていつつ、90歳まで天寿を全うしている、というのも、同氏のインパクトのある逸話です。
キューバ革命及び社会主義革命に反対する様々な勢力に命を狙われつつ、それを掻い潜るだけでもすごいのですが、超絶激務の中さらに長寿というのは、同氏の才能の一つだと思います。いつ殺されてもおかしくないような半端ではないストレスの中、また前例のない国家運営を一手に担う重労働の中、90まで生きるとためには、天性の心身のタフネス及び強靭性がなければ難しいだろうと思います。
まとめ
本記事では、フィデル・カストロ・ルス氏の人となりを知る上で、その政治的業績や能力を一旦置いて、それ以前に人間としてどのような特徴を有した人物であったかを見ていきました。そうしたところ、かなり常人離れした心身の才能を有していた人物ではなかったか、ということが見えます。
本記事の筆者も同氏の自伝を読んですぐに、そのシエラ・マエストラの戦いにおける詳細すぎる戦術・状況の描写に、政治家以前の人間としての常人ならぬ頭脳を感じたところです。
なお、本記事はフィデル・カストロ氏自身や、キューバ革命そのものを賞賛することを目的としたものではありません。一国の元首であった同氏にはもちろん敬意を持って執筆し、またわかりやすく書くことを重視し安直な賞賛を行っている部分もありつつ、これは同革命や同氏の政治に対する評価とは何ら関係はないものです。(実際、中国の初代皇帝である秦の始皇帝然り、一人の天才(或いは常人ならぬ能力の者)によって成し遂げられた物事の持続可能性については、歴史が疑問符を付けている面もあります。)また、当然ながら、本記事は筆者個人の見解です。
上記を前提に、本記事が少しでもフィデル・カストロ氏の人となりを理解する上で役に立てば幸いです。
参考文献
・『フィデル・カストロ自伝 勝利のための戦略 キューバ革命の闘い』 フィデル・カストロ・ルス著 明石書店
・『キューバ現代史』 後藤政子先生著 明石書店
・『キューバ史研究―先住民社会から社会主義社会まで』 神代修先生著 文理閣 等
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